東京高等裁判所 昭和31年(う)201号 判決
被告人 中沢賢一
〔抄 録〕
よつて控訴趣意第一点ないし第三点につき一括して考察するのに、公務執行妨害罪は公務員が職務を執行するに当りこれに対し暴行または脅迫を加えることによつて成立する犯罪であつてその職務行為は、当該公務員の抽象的職務権限に属し、且つ具体的に、外形上一応有効な職務の執行と認めるものでなければならないが、これが犯意の成立あるがためには犯人において、公務員が右職務の執行に当つていることの認識あるをもつて足り、必ずしも具体的に如何なる内容の執務を執行中であるかまでを認識することを要しないものと解するのを相当とする。
然るに原判決挙示の証拠によれば諏訪地方事務所兼長野県蚕業取締所諏訪支部勤務、長野県技術員原山昇平は原判示の日時頃、蚕糸業法第四十四条、第四十四条の二、同法施行令第五条同条の二長野県蚕業取締所処務規程第一条による職務権限に基き蚕糸業法第十五条第一項所定の無検定繭取引の取締を目的とする調査の職務執行のため原判示飯田昇方前に赴いたこと、被告人は諏訪市大字湖南地区の養蚕家から、その生産にかかる生繭を同地区から岡谷市諏訪倉庫株式会社まで運搬方を依頼され自己所有の自動三輪車に荷主代表として西沢光之輔を同乗させ生繭数袋を積載し之を運転して同時刻頃原判示飯田昇方に到り同所に置いてあつた生繭数袋を右三輪車に積み込もうとしたこと、右原山昇平は右西沢光之輔に対し身分証明書を示してその身分を明らかにした上叙上職務の執行として同人の許諾のもとに同人に対し原判示の如き質問をなし更に右三輪車積載の生繭を調査するためその荷台に乗車したこと、被告人はその際、右西沢光之輔の傍らにあつて原山昇平が右西沢に身分証明書を呈示しその職務執行につき許諾を得たのを目撃し且つ原判示の如き質問をするのを聞いて右原山が蚕業取締所吏員として職務の執行に当つていることを知りながら、右西沢及び原山に対し、原判示の如き言動に出でたこと、その他原判示事実を認めるに足り、これによつてこれを見れば右自動三輪車積載の生繭はすべて同乗の荷主代表者たる西沢光之輔がその占有管理の権限を有していたものと解すべきであるから、右原山昇平が、叙上の職務権限に基き無検定繭の取引取締を目的とする調査のため右西沢の許諾を得て叙上の如き質問及び調査をなしたのは、これを適法且つ有効な職務の執行と解するに十分であり、たとえ右生繭を積載した自動三輪車が運送人たる被告人の所有に属し、右原山が被告人には無断でその荷台に乗り込んだとしても、右積荷の占有管理が、同乗者西沢光之輔に属ししかも同人において該積荷の調査を許諾したこと叙上認定のとおりである以上、被告人はこれを拒むに由がないと同時に、被告人が原山昇平が蚕業取締所吏員として職務を執行中なることを認識しながら、同人の質問を受けている西沢光之輔に対し原判示の如く申し向けてその応答を封じ、次いで右原山に対し、原判示の如き言辞をもつて物凄い権幕でこれを難詰し、その職務執行を阻止せんとの態度を示したのは、よつて同人を畏怖せしめてその職務の執行を断念させる意図のもとに、敢てその執行を継続するにおいては暴力を加えてもこれを阻止する旨、を告知したものに外ならないことは被告人がその直後現実に原判示暴行に出でたことに徴してもこれを窺うことができ、これが脅迫に該当することは多言を要しないから、仮りに被告人において右原山昇平が具体的に如何なる内容の職務を執行しつつあるやを知らなかつたとしても右脅迫及び暴行の所為は相まつて同人に対する公務執行妨害罪を構成するものと言わねばならない。論旨は右原山の所為は無検定繭取引の取締に藉口し、いわゆる産繭「横流し」阻止のために行われた養蚕業者に対する不法の干渉であつてその権限外の行為であるから刑法第九十五条第一項にいわゆる職務の執行に該当しないと主張するが、所論の各証拠をもつてするも原判示認定を覆えし所論の如き事実を認めるに由がない。論旨はまた被告人の本件所為は自己又は他人の権利を防衛するため已むことを得ずになした行為であるから違法性を阻却すると主張するが、原山昇平の所為が前記西沢光之輔に対する適法且つ有効な職務の執行と認められることは叙上のとおりであるのみならず、記録上被告人の権利につき何等の侵害あるを認め難い本件においては、到底急迫不正の侵害あることを前提とする正当防衛の観念を容れる余地は存しない。その他記録を精査し、当審における事実取調の結果に鑑みるも、原審が審理を尽さずまたは、採証、認定において事理、経験の法則に違背しもしくは法令の解釈を誤つた結果、事実認定または法令の適用において判決に影響を及ぼすことの明らかな過誤を冒したものとは認められない。而して原判示事実は公務執行妨害罪の事実摘示として刑法第九十五条第一項の罪の構成要件において欠けるところはなく、所論の如く、被告人が原山昇平が蚕業取締所吏員として職務を執行中なることを認識した旨を判示するに止まりその職務の具体的内容についての認識の有無を証拠により認定判示するところがなかつたとしても、かかる事項は公務執行妨害罪の構成要件たる事実には属しないから毫も所論の如き理由不備の違法があるものと言うことはできない。なるほど記録によれば原審において被告人の弁護人から正当防衛の主張があつたのに拘らず、原判決がこれに対する判断を明示していないことは所論のとおりであるが、正当防衛その他刑事訴訟法第三百三十五条第二項にいわゆる法律上犯罪の成立を妨げる理由となる事実の主張に対する判断の判示方法は、必ずしも常にその主張事実を掲げてこれに対し直接判断を示す方法を採ることを要するものではなく、その主張事実に関し却つて反対の事実を認定して、間接に主張否定の判断を示す方法を採ることも差支えないものと解するのを相当とする(最高裁判所昭和二十四年九月一日第一小法廷判決同裁判所刑事判例集三巻十号一五二九頁以下の趣旨参照)ところ、原判決は原判示公務執行妨害罪の成立を認めて有罪の判決をなし、よつて間接に正当防衛の主張を排斥する旨の判断を示していることは判文上明瞭であるから、叙上説明の趣旨において原判決の措置は正当であつて何等所論の如き訴訟手続上法令違反の廉はない。その他記録に徴するも原判決には理由不備ないしは訴訟手続の法令違背の瑕疵はない。所論が縷縷陳弁するところはいずれも原審が証拠に基き事理経験の法則に従い自由に判断したところを非難するか、または法令の解釈につき独自の見解を主張するものであつて採用するを得ない。各論旨は結局いずれもその理由がない。
(三宅 河原 遠藤)